一月が終われば、もう年末。〜言葉に思うこと〜

 良いお年をでおなじみの
わしです。
今回は言葉について考えてみようかね。

ごきげんよう

いいたい
女性が増えている
とか
ふえていないとか
しらなんとか学院では
であった
あいさつも
さよならの
あいさつも
ごきげんよう
ちなみに
わしは
お昼に
ごきげんよう
ライオンちゃんにね。
これは
なんだか
おしとやか感を出したいのだろう。
汚い言葉の
蔓延した社会。
それも
言葉文化です。
キレイな言葉
だけ

言葉をつくれば
よかったんじゃないか?
とも
おもうが
そうもいかない
決まりきった
言葉に
たいする
反逆精神は誰にでも浮き上がってくるもの。
あいつの
使う言葉は
わしは
つかわん
みたいな
ことだ。
キレイな
ことばって
なんだろうか?
それは
感じ方次第なんだろうけど
ごきげんよう
それに
ふくまれる
はずだ。
舞鶴
とか
どうだろうか

美しい言葉
っていうのは
失われる
と思うんだな
これから
みんな
「はんぱない」
「すごい」
「よかった」
「マジで」
とかで
全部
済ませられる。
感想を求められて
ついつい
よかったです。すごかったです
なんて
誰にでも
言えるんです。
みんな同じ意見
もしくは
エスとノー
だけの
意見
で終わる。
それは
非常にコンパクトで
スマートにも感じられる。
ことわざを
使う人が
すくなくなった

感じている
ひとも
いる
ようなんだが
これも
それ。
石の上にも三年
的な
じたいが
あっても
がんばったね
という
ことば

すませてしまう
豚に真珠だ
なんて
言う
より
おまえにはもったいない
とか
そんな
ストレートな
言葉に置き換えられて
話して
しまっているんだ。
われわれは。
そもそも
意味を共有できていない場合には
なんとも
はてな

感じに
なる。
今後の
言葉っていうのは
増えてるようで
減っていて
塗り替えが行われているのかもしれない。
死語なんて
言葉があるぐらいだ。
そういった
死語って
死んだところで
葬儀を
行わないのが
人間として
薄情だよな。
チョベリバ合同葬を青山斎場で開きやがれ!

言いたい
ほかにも
ナウい
とか

まあ
なぜ
葬儀が
行えないのかは
察しがついてる
死んだ事に
気づくのが
おそいんだな。きっと。
もしかすると
わしらの
周りには
死語の
死体が
転がりまくっているのかもしれない
見かけたら
復活の呪文をかけて
発して見てほしいな、
そうか
死語

いくらでも
蘇らせる事が
できるのか?
「それでは、バイなら!」

なんか
復活呪文かけちゃってた??